私がこれまで読んできた歴史書では日・独・伊三国同盟はアメリカを抑止しようと結成されたが、逆にアメリカを硬化させてしまっただけのとんでもない代物だと聞かされ続けてきた。 しかし実際は三国同盟それ自体は完成品ではなく、そこにソ連を加えて4カ国同盟にすることが当時の近衛首相の目的だったというのである。
私が4カ国同盟の構想を知ったのは鳥居民氏の著書が最初だったと思う。それから大学の図書館で三宅正樹氏の『日独伊三国同盟の研究』を読んで自分なりに理解したのだった。今回三宅氏が最新の研究を取り入れ新たに『スターリン、ヒトラーと日ソ独伊連合構想』を一般向けに上梓されたので少し解説してみたい。 まず三宅氏は昭和14年7月19日に書かれた『事変を迅速かつ有利に終熄せしむべき方途』という戦略的に画期的な文書を取り上げている。この文書が書かれた時期は支那事変が泥沼に陥り始め、2ヶ月前にはノモンハンでソビエトとの激しい戦闘が行われたばかりの時期であった。 「ソ連は日本を敵視し、日本はソ連を敵としてきた。この行きがかりを棄てて、この状態を逆にすることが出来ないか。即ち英仏の陣営よりソ連を離間し、目下行われつつある英ソの交渉を暗礁に乗り上げさせることは出来ないか。そして日ソ独伊の陣営を結成する方法は無いか。 日ソが手を握れば、そのことだけで支那の向背、事変の体勢は忽ちの中に決定する。それでもなお重慶政府が抗戦する場合は、重慶においてクーデターを断行することも容易となろうし、それこそ蒋をとらえることでも何でも出来る。但し左様な手段に及ばずして形成が決定するであろうことを、断言して憚らない。そうなった暁馬鹿を見るのは英国で、彼の手は長鞭馬腹に及ばず、彼が利権は東洋の天地を閉め出しを喰うの他はない。」 46頁 日ソ独伊の同盟ができて初めて米国を抑止させることができるのである。「日ソ独伊の4国連合が結成されれば容易に世界戦争は起きないと思われるが戦争になってもこの陣容ならば負けない」という見通しが述べられ、最後に次のような文で締めくくられている。 「日独伊ソの連盟が成り立てば、世界をあげて驚愕するに相違ないが、特に英国と蒋政権は狼狽、度を失するを見るがごとしである。その狼狽の程度は租界隔絶の比ではない。租界隔絶は外交的に英国の援蒋政策を掣肘する程度をいでず、事変の解決に対する決定力を期待するのは無理であるが、日ソ独伊の連盟は事変解決に最後の決定力をもつ」 51頁 泥沼の日中戦争を、日本の名誉ある撤退に持ち込むにはこの戦略しかなかったと思う。ソ連は当時中国に対して多数の借款や義勇兵を送るなどして日中の戦いを泥沼にしようと画策していた。(スターリンは同じ戦略を朝鮮戦争の時にも使った。さらにいえばこの時のスターリンの立場は現在のイランの立場に通じるものがある。イラクがうまく行けば次にアメリカの標的になるのはイランであるから、イランとしてはイラクの泥沼化が国益になる。) さらに4カ国の同盟が出来、イギリスと戦争になったと仮定してみよう。そうなった場合アメリカはイギリスと一緒に介入できただろうか。英米可分論と不可分論という議論が当時あったと思うが、4カ国同盟が出来れば英米可分論に持ち込むことが出来たのである。 この画期的な戦略文書には残念ながら署名が無かったので現在でも誰が書いたのか確定していないが、三宅氏は松岡洋右が書いたものだろうと推測しておられる。もしそれが事実なら松岡は戦後の歴史家がいうよりも優秀であったのだろう。 次に続く。
by masaya1967.7
| 2007-02-20 01:09
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