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三国同盟について 4

 最後に、三宅正樹氏の『スターリン、ヒトラーと日ソ独伊連合構想』について二つのことを書いて終わりにしたい。

 三宅氏が『日独伊三国同盟の研究』を書かれてから30年の年月がたち、何故に一般向けに今回出版されたかについてである。私が外交史などに興味をもち、読み始めた本は、故高坂正嶤氏や岡崎久彦氏または北岡伸一氏などのいわゆる「親米保守」派たちの本が圧倒的に多かった。彼らの本の中では三国同盟が4カ国同盟を作ろうとしたものだったという解釈は、ほとんど無かったと思う。あったとしても簡単に触れていただけだった。松岡洋右について三宅氏は次のように書いている。

 「松岡は南部仏印進駐が日米戦争を触発することを見抜いたけれども、彼の独善的な態度は、その失脚につながった。しかし独ソ戦勃発以後の事態は、本書がこの時期の歴史をたどる上での軸としてきた日ソ独伊四国連合構想が、独ソ戦勃発によって完全に死滅した後のことであり、日米交渉を含めて、本書とは別の軸によって考察すべきものであろう。」(239頁)

松岡に対して親米保守の歴史家の評価が辛くなるのは彼らには松岡を判断する基軸に「日米関係」しか持てなかったからであった。おそらくそのような基軸しか持てなかったのは「米ソ冷戦」のせいであった。「米ソ冷戦」の最中に松岡の4国連合構想を評価する論説が堂々とまかりとおっていたら危険だという判断が歴史家に働いていたとしても不思議ではない。冷戦中は三宅氏のような歴史家は政治的に「危険」だったのである。しかし冷戦が終わり、アメリカ批判も日本ではタブーで無くなってきた。その結果三宅氏の30年早すぎた研究が一般に日の目をみることになったのである。

 最後にひとことだけ。三宅氏は4国同盟構想を現代に敷衍して「後藤新平が『新旧大陸対峙論』で主張したような、ロシアを中心とするユーラシア大陸のブロックに日本も参加して、新大陸の米国を牽制するという構想は、現在ではもはや問題にならないであろう。」(253頁)言っている。

 しかしながらフランスの批評家エマニュエル・トッドは『帝国以後』で次のように述べている。

 「アメリカは一方的な行動によってヨーロッパの同盟国をなおざりにして、その面目をつぶし、己の勢力の本質的な道具であるNATOをなりいきまかせにしている。また日本を軽蔑しており、世界一効率的で、アメリカの安寧に必要不可欠な日本経済は遅れた経済として絶えず決めつけられている。さらには中国をあきもせずいつも挑発し続け、イランを悪の枢軸の一員にしてしまう。まるでアメリカはいずれもアメリカの不規則な行動に振り回されて苛立つ極めて多様な国々からなるユーラシア同盟を作っているようだ」(185頁)

 日本はアメリカに対してある種の「トラウマ」を抱えている。近代文明を作ったヨーロッパも同じものを抱えているだろう。冷戦に敗れたロシアもアメリカには複雑な気持ちを抱いている。中国もいずれはアメリカによって共産党を崩壊させられるから、アメリカに対してよい感情だけを持つことにはならないであろう。

 このようなアメリカに対して複雑な感情を持つ国々に対して、アメリカはそのような感情を理解しながら国際社会をリードする能力を持っているのだろうか。私はトッドと同じく否定的である。現在では不可能だが何十年後の遠い将来4国連合構想は日本の外交になんらかの役割を持つような気がする。
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by masaya1967.7 | 2007-02-23 00:59 | 国際政治

三国同盟について 3

 三国同盟をソビエトを加えて、4カ国同盟にするという構想はヒトラーのソビエト侵攻によって最終的に崩壊した。そこで何故日本はその時に三国同盟を反古にしなかったのだろうか。近衛首相は次のように証言している。

 「余は当時三国同盟の理由及至経過に鑑み、本条約を御破算にすることが当然なのではなかろうかと軍部大臣とも懇談したことであった。しかしながらドイツ軍部を信頼すること厚き陸軍はとうていかかる説に耳を傾けようとはしなかった。」(235頁)

 2回裏切られてもついていこうとするのは旧帝国陸軍はドイツの『ポチ』になり果ててしまっていたのである。一方松岡洋右はドイツのソビエト侵攻を聞くなり、自分が結んできたソ連との中立条約を忘れてしまったかのようにソビエトに日本も侵攻しろと天皇に上奏するのである。

 もしこの時の松岡案がとられていたらどうなっていただろうか。兵頭二十八氏は『日本の海軍兵備再考』で「1941年の関特演がもし対ソ戦に移行していれば、それは、ドイツ軍との東西挟撃になった。この場合おそらくソ連はウラルの『内国聖域』を維持できず、主権者スターリンは屈服したであろう」と書いている。もしそうなれば同時に日中戦争も日本の勝利に終わっていたであろう。

 三国同盟から四カ国同盟に失敗した時点で、日本は同盟を破棄することもなくまたソビエトに侵攻することもせず、何をしたのかと言えば南部仏印に進駐してしまったのである。日本が南部仏印を選んだ理由は鳥居民氏によれば海軍が陸軍のソビエト侵攻を恐れ陸軍を南へ目を向けようと考え、陸軍は陸軍でノモンハンでのソビエトに対する恐怖がぬぐえず、海軍の意図にこれ幸いとのってしまったのが真相だと言う。

 結局日本が三国同盟を結んだのは間違いではなく、4カ国同盟が失敗した時点でもう少しましな解決が出来なかったのかが最大の疑問であろう。

 続く
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by masaya1967.7 | 2007-02-22 00:37 | 国際政治

三国同盟について 2


 しかしながら、松岡洋右の構想した4カ国同盟はうまくいかなかった。ヒトラーに大半の責任があると私は思う。そもそもヒトラーと外相リッベンドロップの外交思想が相容れなかったのである。

 「ヒトラーは、英国を講話に持ち込むことに希望を持ち続け、その手段として対ソ戦を思いついたのに対して、リッベンドロップは常にソ連の強国としての存続を願い、マドリッドからモスクワをへて東京に至る大陸ブロックを作り出すことによって、英国に譲歩を強要しようとした」(246頁)

 それでもヒトラーが4カ国同盟構想を支持していた時期もあったのである。「1940年秋、ヒトラーはソ連と日本を含めたユーラシア大陸ブロック構想を選ぶべきか、それとも電撃戦でソ連を打ち負かし、敗者としてのソ連とブロックを作るのか2つの可能性で迷い続け、数ヶ月も決意を固められないでいた」(154頁)

 それに答えを出したのが40年11月のモロトフソ連外相のベルリン訪問であった。スターリンはヒトラーが苦戦していると思い、4カ国同盟に入る条件をつり上げた。おこったヒトラーは対ソ戦を決定してしまうのである。

 結局日本は国家として2度もドイツに裏切られることとなった。「平沼内閣当時ソ連を対象とする三国同盟の義を勧めながら、突如その相手ソ連と不可侵条約を結びたることが、ドイツのわが国に対する第一回の裏切り行為とすれば、ソ連を味方にすべく約束し、この約束を前提にして三国同盟を結んでおきながら、我が国の勧告を無視してソ連と開戦せるは第2の裏切り行為というべきである」(235頁)

 ドイツ人は現在においてこの裏切りをどのように思っているのだろうか。彼らは全ての責任をヒトラーに背負わせたから、当然日本に対する2度の裏切りもまたヒトラーのせいにして知らんぷりを決め込むのだろう。そしてドイツは過去を反省したが日本は反省していないなどというのである。ドイツの行ったことをヒトラー個人だけの責任にすることはおかしいと私は思う。日本に何らかの詫びがあってもいいのではないか。

 続く
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by masaya1967.7 | 2007-02-21 00:17

三国同盟について 1

 私がこれまで読んできた歴史書では日・独・伊三国同盟はアメリカを抑止しようと結成されたが、逆にアメリカを硬化させてしまっただけのとんでもない代物だと聞かされ続けてきた。 しかし実際は三国同盟それ自体は完成品ではなく、そこにソ連を加えて4カ国同盟にすることが当時の近衛首相の目的だったというのである。

 私が4カ国同盟の構想を知ったのは鳥居民氏の著書が最初だったと思う。それから大学の図書館で三宅正樹氏の『日独伊三国同盟の研究』を読んで自分なりに理解したのだった。今回三宅氏が最新の研究を取り入れ新たに『スターリン、ヒトラーと日ソ独伊連合構想』を一般向けに上梓されたので少し解説してみたい。

まず三宅氏は昭和14年7月19日に書かれた『事変を迅速かつ有利に終熄せしむべき方途』という戦略的に画期的な文書を取り上げている。この文書が書かれた時期は支那事変が泥沼に陥り始め、2ヶ月前にはノモンハンでソビエトとの激しい戦闘が行われたばかりの時期であった。

 「ソ連は日本を敵視し、日本はソ連を敵としてきた。この行きがかりを棄てて、この状態を逆にすることが出来ないか。即ち英仏の陣営よりソ連を離間し、目下行われつつある英ソの交渉を暗礁に乗り上げさせることは出来ないか。そして日ソ独伊の陣営を結成する方法は無いか。
 日ソが手を握れば、そのことだけで支那の向背、事変の体勢は忽ちの中に決定する。それでもなお重慶政府が抗戦する場合は、重慶においてクーデターを断行することも容易となろうし、それこそ蒋をとらえることでも何でも出来る。但し左様な手段に及ばずして形成が決定するであろうことを、断言して憚らない。そうなった暁馬鹿を見るのは英国で、彼の手は長鞭馬腹に及ばず、彼が利権は東洋の天地を閉め出しを喰うの他はない。」 46頁

 日ソ独伊の同盟ができて初めて米国を抑止させることができるのである。「日ソ独伊の4国連合が結成されれば容易に世界戦争は起きないと思われるが戦争になってもこの陣容ならば負けない」という見通しが述べられ、最後に次のような文で締めくくられている。

 「日独伊ソの連盟が成り立てば、世界をあげて驚愕するに相違ないが、特に英国と蒋政権は狼狽、度を失するを見るがごとしである。その狼狽の程度は租界隔絶の比ではない。租界隔絶は外交的に英国の援蒋政策を掣肘する程度をいでず、事変の解決に対する決定力を期待するのは無理であるが、日ソ独伊の連盟は事変解決に最後の決定力をもつ」 51頁

 泥沼の日中戦争を、日本の名誉ある撤退に持ち込むにはこの戦略しかなかったと思う。ソ連は当時中国に対して多数の借款や義勇兵を送るなどして日中の戦いを泥沼にしようと画策していた。(スターリンは同じ戦略を朝鮮戦争の時にも使った。さらにいえばこの時のスターリンの立場は現在のイランの立場に通じるものがある。イラクがうまく行けば次にアメリカの標的になるのはイランであるから、イランとしてはイラクの泥沼化が国益になる。)

 さらに4カ国の同盟が出来、イギリスと戦争になったと仮定してみよう。そうなった場合アメリカはイギリスと一緒に介入できただろうか。英米可分論と不可分論という議論が当時あったと思うが、4カ国同盟が出来れば英米可分論に持ち込むことが出来たのである。

 この画期的な戦略文書には残念ながら署名が無かったので現在でも誰が書いたのか確定していないが、三宅氏は松岡洋右が書いたものだろうと推測しておられる。もしそれが事実なら松岡は戦後の歴史家がいうよりも優秀であったのだろう。

 次に続く。
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by masaya1967.7 | 2007-02-20 01:09