日本が戦争に負けた後、石原莞爾は東京裁判の出張所である酒田臨時法廷に証人喚問されることになった。そこで石原は日本がとるべきだった戦略を説いてます。 「とくにサイパンの防御には万全を期し、この拠点は断じて確保する。日本が真にサイパンの防衛に万全を期していたら、米軍の侵入を防ぐ事が出来た。米軍はサイパンを奪取できなければ、日本本土爆撃は困難であった。それゆえサイパンさえ守り抜いていたら、レイテを守り、当然五分五分の持久戦で断じて負けていない。蒋介石がその態度を明確にしたのは、サイパンが陥落してからである。サイパンさえ守り得たなら、日本は東亜の内乱を政治的に解決し、シナに心から謝罪して支那事変を解決し、次に民族の結合力を利用して、東亜一丸となる事ができたであろう。」(『板垣征四郎と石原莞爾』240頁。 福井雄三氏は石原莞爾が日本防衛の拠点はサイパンにあると早くから着眼していたと書いています。ところが、軍人でもないのにサイパンが日本にとって重要だと認識していた人がいました。それは岸信介でした。彼はサイパンが陥落した時に日本がアメリカに勝つ事は無くなったと考えたのでしょう、彼は東条内閣の倒閣を狙い、それを見事に達成しているのです。考えても見てください、日本が激しく空爆されている時に敗戦を実感することはそんなに難しくないと思われるのですが、一つの島が落ちた事で日本の敗戦を予想し、東条内閣を倒そうと考える事はそんなに簡単にできることではないと思うのです。さすがに岸は仲間からカミソリと呼ばれるだけのことはありました。故高坂正嶤氏は岸の事を「合理的な国家主義者」と呼んでいました。 一方、石原莞爾の証言が正しいのだとすれば、サイパンが落ちた時点で日本の敗戦を予想した蒋介石の戦略眼もさすがなものだといわなければならないでしょう。蒋介石は早くから日本よりも中国共産党の方が脅威だと説いてきた合理主義者です。ところが彼の意志に反して結局は日中は戦争になってしまいました。もちろん日本の軍部が北支に手を出そうとしたのも戦争になった一員ですが、その当時の中国都市住民の「日本と戦え」というナショナリズムに抗する事が出来なかったことが最大の要因です。1920年代の中国は「愛国無罪」だったのです。 一方、岸信介も戦後総理大臣にまで駆け上りますが、安保改定で挫折します。改正されるまでの安保は日本に騒乱が起こればアメリカが鎮圧する事が出来るという無茶苦茶な内容で、これを改正する事は全く正しい事だったのですが、反対のデモに遭遇したのです。これらの左翼デモの中身は反米ナショナリズムで、いくら改正してもアメリカの植民地にある事には変わりがないから改正するなという無茶な要求でした。結局岸は日本の反米ナショナリズムの犠牲になったのでした。 サイパンの陥落を日本の敗戦と素早く判断できた合理主義者がナショナリズムの犠牲になったのは、政治というものが合理性だけで処理できない証左でしょう。
by masaya1967.7
| 2009-10-21 14:56
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