東ドイツがどのようにして崩壊したのかを確かめる為にマーティン メイリアの『ソビエトの悲劇』(草思社)を読み直してみた。
1989年9月ハンガリーのブタペスト政府はオーストリアとの国境を解放する。この行為は数千人の東ドイツの「休暇中の人たち」が西ドイツへ入国することを許すことであった。その結果東ドイツ人がプラハやワルシャワの西ドイツ大使館に殺到し始め、つづいて起こった大量出国のために東ドイツはあからさまな危機に陥り、国内で改革を求める大きなデモが起こった。 結局、東ドイツ政府は国内のデモに対して武力を用いることができず、自由な通行を許す為にベルリンの壁を解放したことで運命は決まってしまった。 東ドイツの崩壊の場合明らかに因果関係が成り立っている。東ドイツの人々が国家から脱出していくことで東ドイツの崩壊が決定的になったのである。 同じく分裂国家であったベトナムが統一した時にもたくさんのボート ピープルが発生した。しかし因果関係は全く逆である。南ベトナム政府が崩壊したからたくさんの難民がでたのである。 ドイツの場合とベトナムの場合を比較して言えることは、分裂国家の一方が崩壊して統一に向かう場合、難民の発生を伴うことには強力な相関関係が存在するということである。しかしながら因果関係にはなんらの共通性はみられないということである。 そこで朝鮮半島の統一するときには必ず難民の発生を予測することができる。朝鮮半島においては、南ベトナムのように国家が崩壊してから難民が発生するのか、東ドイツのように難民の発生を許すことによって国家が崩壊するのかを見極めなくてはならない。 私は東ドイツのパターンであろうと思う。ベトナムの場合は南北が戦争していたが現在の朝鮮半島は戦争状態になっていないのが最大の違いである。
by masaya1967.7
| 2006-11-05 16:02
| 国際政治
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